今や100年以上の歴史がある、国産機械式腕時計を代表する「グランドセイコー」。 その部品製造から、組立、調整、出荷までを一貫して行う「盛岡セイコー工業株式会社」は、岩手山を仰ぐ大自然の懐に抱かれた町・雫石町にあります。
盛岡セイコー工業は、 グランドセイコー誕生60周年の節目を迎えた2020年7月、敷地内に新たな生産拠点「グランドセイコースタジオ 雫石」を開設しました。グランドセイコーのブランドフィロソフィーである 「THE NATURE OF TIME(※)」を具現化した、周辺の自然と溶け込むような木造建築のクリーンルームで、日々時計職人たちが機械式腕時計の組立や精度調整を行っています。
「岩手山は、この地に住む人々にとってシンボリックな存在。 このスタジオができてから、『今日は岩手山がよく見えるね』といった会話が社員同士で自然に生まれ、コミュニケーションもより良くなっているようです」と話すのは、盛岡セイコー工業の林義明前社長。 自然や季節の移ろいをより身近に感じられるスタジオは、社員に心のゆとりとインスピレーションを与え、それが時計づくりにも活かされているといいます。
盛岡セイコー工業は、現セイコーウオッチ株式会社の生産拠点として、1970年雫石町に設立されました。 時計などの精密な機械をつくる上で、澄んだ空気ときれいな水は欠かせないため、自然豊かな雫石町が新たな生産拠点として選ばれたといいます。「最初は部品製造から始まり、優秀な技能者の育成に力を注ぎながら、徐々に製造範囲が広がっていきました。今では国内で唯一グランドセイコーの機械式腕時計を製造する会社として、セイコーのものづくりのDNAを受け継いでいます」と林前社長は語ります。
もともと会社周辺には、アカマツやコナラの樹林帯が一帯に広がっていたことから、設立当初より自然との共生を理念に掲げ、工場周辺の環境保護活動はもとより、工場排水の無害化処理やCO2排出削減などの取り組みによる環境整備に努めてきました。現在も、会社敷地内の3分の1を自然林が占めていて、カモシカや野ウサギなどの野生動物と遭遇することもあります。さらに、虫や小動物のすみかとなる「インセクトホテル」の設置や、池や湿地などを備えたビオトープの整備を行いながら、子どもたちに自然や生物多様性の大切さを伝える活動にも力を入れています。
自然豊かな雫石の地で、歴史に名を残す幾多の名品を生み出してきた盛岡セイコー工業。 この地でものづくりを行うことについて、林前社長はこう話します。「古くから伝統工芸品づくりが盛んな岩手には、謙虚で、誠実で、真摯にものづくりと向き合う人が多いと思います。それがグランドセイコーの時計づくりの精神にも、しっかり根付いていると感じています」
ひたむきなものづくりの歴史が培われてきた岩手・雫石の地で、自然との共生の中で脈々と受け継がれてきた時計づくり。世界が認める技術と守り続けてきた環境を、次世代につなげていくために、盛岡セイコー工業は今日も歩み続けます。
※自然や季節の移ろいからインスピレーションを受ける感性と、それぞれの道を究めて時の本質に迫ろうとする匠の姿、その二つの日本の精神性を表現しています。
(2023年1月取材)
現代の名工のひとりである齋藤勝雄さんは、機械式腕時計の組立のスペシャリスト。中でもセイコーウオッチが誇る高級腕時計クレドールの組立調整を10年以上にわたり担当しています。搭載されるムーブメントは500円硬貨程度のわずか1・98ミリメートルと極薄。120点もの部品を100分の1ミリメートル単位で調整しながら組み立てる時計は、最高級難度の卓越した技能を持って取り組みます。齋藤さんは「少しのミスも許されないため集中力と忍耐力が必要ですし、時計が動かなかったらまた一からやり直しという厳しい世界。それでも、完成した時計が動き出した時の喜びは、何にも代えがたいものです」と語り目を細めます。
山から木や竹を切って遊び道具を作るほど、幼い頃からものを作るのが好きだったという齋藤さん。高校卒業後は関連の時計会社へ入社し、のちに盛岡セイコー工業に配属されました。その時に初めて機械式腕時計と出会い、電池を使わずぜんまいで動く姿に衝撃を覚えたといいます。「どうして動いているのだろう?と、純粋に興味が湧きました。そこから機械式腕時計を自分で作りたいと思うようになり、独学で勉強を始めました。時計づくりを極めようと決意を固めたのもその頃からですね」
持ち前の器用さと粘り強さで時計づくりの腕を磨き上げてきた齋藤さんですが、ときには失敗から学んだことも…。組立調整の不備によって数カ月納品を遅らせてしまったのです。その経験から、ブランドとしての責任をより強く感じるようになったといいます。
「お客様の大切な時計を、自分のミスで納品を遅らせてしまったことがショックでした。単純に時計を組み立てるのではなく、その先のお客様の顔を思い浮かべながらものづくりをしていこうと肝に銘じました」今では、齋藤さんが作った時計が欲しいと現地まで買いに来るお客さんもいます。「自分が組立から最終調整まで手がけた時計が形になってお客様に喜んでもらえる。それが何よりも嬉しいですね」と齋藤さんは顔をほころばせます。
これまで培ってきた技術と職人としての心構えを若い世代に伝えている齋藤さんは、技能育成塾の指導者として技能伝承への思いをこう語ります。「技能伝承とは、師匠と同じものを作れるようになって初めて言えるものだと私は思います。私も師匠に多くのことを教わり、ここまで辿り着くことができました。次は、私が若い世代に伝える番。技術はもちろん、努力する大切さと喜びも伝えていきたいです」
齋藤さんの時計づくりを突き詰める日々はこれからも続いていきます。「私自身、理想とする姿には到達できておらず修行の毎日です。今後はもっと難しい時計にもチャレンジしてみたいですね」と齋藤さんは生き生きと話します。雫石で受け継がれてきた匠の技を誇りに時計づくりに向き合う姿は、雫石の地からものづくりの未来を明るく照らします。
(2023年1月取材)
障害者だからと先回りした行動を起こす必要はない。
彼らの働く姿は私たちと何も変わらないですから。
「もったいない」から始まった共生社会への歩み
幸呼来 Japanは、盛岡さんさ踊りで使用した浴衣や古くなった布を裂き織にし、新たに生地や商品に再利用する事業をしています。代表取締役の石頭悦さんは、勤めていた住宅リフォーム会社の勉強会で特別支援学校を訪問した時に、障がいのある生徒たちが織った裂き織に出会いました。廃棄されてしまう布を使った裂き織という地元の伝統技術があまり知られていないこと、彼らの素晴らしい技術を卒業後に生かせる場所がないことを知りました。「もったいない」その思いから2010年7月に会社の事業部で裂き織部門を立ち上げることになります。
事業が軌道に乗ってきた矢先に東日本大震災が発生。震災直後は会社も先行きが不安定な状況が続き、裂き織事業部の存続が厳しくなりました。「震災の翌日にも関わらず心配して出社してきたスタッフがいました。その人のことを考えれば、事業部の閉鎖でもう来なくていいとは言えない。そこで私は会社を辞め、全てを引き継ぎ幸呼来 Japanを立ち上げる決意をしました」。
現在17名の障がいのあるスタッフと働いている石頭さんですが、昔は「障がい者には手を差し伸べなければいけない」と思っていたそうです。しかし、その考えを覆すことが起こります。それは、前職で参加した福祉機器を取り扱う展示会での出来事でした。実行委員には、障がいのある方が数名おり、彼らが健常者と同じように仕事をこなす姿は、それまで持っていた偏見を一瞬にしてなくしました。「てきぱきと仕事をこなす姿は、健常者も障がい者も何も変わらないのです。障がい者だから助けてあげる、それは親切心でも根本には偏見があります。先入観にとらわれて先回りした行動を起こす必要はないんだと私に気づかせてくれました」と当時のことを振り返ります。
今年の9月で11年目を迎え一見順風満帆に見えますが、起業したばかりの頃は苦労が多かったそうです。生地を裂く作業、織る作業は分業なので、入社してきても希望した作業をできない人もいました。その時に石頭さんが大事にしていたことは、全員が働きがいを感じられる環境作りです。「誰一人抜けてもうちの商品はできない。そのことを粘り強く言い続けました。その結果、自分の仕事は会社の役に立っていると理解してくれる人が増えてきました」。その他にも、職場には注意事項を書いた紙を壁に貼るなど、スタッフが働きやすい環境を作るための工夫がたくさん見られます。
地域の伝統の継承、資源の再生利用、障がい者福祉の観点から幸呼来 Japanは社会課題解決型の事業と言われています。しかし、社会課題解決型の事業は継続するのが難しいのが現実。そのためには収益性の確保が重要になってくると石頭さんは言います。「裂き織の付加価値を上げることが課題です。裂き織が完成するまでの物語、それを障がいのある人が作っていることを多くの人に知ってほしい。そして、私たちの商品に興味を持った人が、障がい者を身近に感じ、お互いを理解し合い、共生できる世界になってほしいと思います」。石頭さんの活動は共生社会実現のための1つのロールモデルと言えるでしょう。彼女に共感し行動を起こす人たちが、世界中にあふれてほしい。その先に、人々の多様性を認め合える明るい未来が待っているに違いありません。
(2021年8月取材)若者就職サポート施設「ジョブカフェいわて」で、チーフコーディネーターを務める高橋牧子さん。来館した方を対象にしたキャリアカウンセラーの経験を積み、現在はセミナーの開催やプログラム開発、学校支援など、ジョブカフェ全体に関わる企画も担当しています。
大学卒業後に入社したのは、製造メーカーの人事部。採用チームの一員として、新卒・中途採用に携わってきました。そこで高橋さんが目にしたのは、期待して採用した新人がすぐに辞めてしまう現実。「悶々とした思いがありました。会社と本人、両方に不幸な結果になってしまうことが心にひっかかっていたんです」。
いずれは岩手に戻ろうと思っていた高橋さんは、会社の方針の変更と3年という節目をきっかけに退職し、帰郷。いざ自分が就職活動するときに初めて知ったのが、「ジョブカフェいわて」の存在でした。若者の就職をサポートする仕事があることを知り、「今までの経験を活かしつつ、企業でも学校でもない立場からその支援ができる。この仕事はおもしろそうだ」と感じたそうです。
ジョブカフェいわてが開設したのは、2004年7月。高橋さんはその1年後にスタッフの一員になり、キャリアカウンセラーとして活躍し始めます。これまでを振り返り、高橋さんはこう語ります。「景気が悪いときも良いときも、利用者は常にいます。しかも、時代によって若者の悩みの傾向は全く異なってきます。世の中の動向を捉えながらも型にはめすぎず、一人ひとりに真っ新な気持ちで向かい合う。そのバランスが大事だと思います」。
高橋さんは「働くこと」を取り巻く現状に対して、企業と働き手が理解し合うことの大切さを感じています。「お互いに過大な期待をしてしまうことが多いと思います。例えば、初めて新卒採用をした企業。育て方が分からず、『背中を見ろ』と言わんばかりの教育スタイルになってしまいますが、新人にとっては慣れない環境。なかなか先輩に聞きづらいのかもしれません。若い人がせっかく就職活動をがんばって入社しても、コミュニケーションがうまくとれないことが理由ですぐに辞めてしまう…それはもったいないですね」と、もどかしさを語ります。ジョブカフェいわてでは、この状況を踏まえ、企業の育成担当者を対象にしたセミナーや情報冊子の制作を企画。企業や働き手の「生の声」に触れられる立場を活かし、問題を改善するための取り組みを続けています。
社会の変化が著しい現代。それでも高橋さんは「人への希望」を忘れません。「心に残っている言葉に、『ふたつよいことさてないものよ』というものがあって。物事には必ず良い面と悪い面があるという意味です。就職活動がうまくいかず落ち込んでいる相談者にも、『きっと本人が気付いていないだけで、良いところがあるに違いない』と思いながら話を聞くようにしています。ちょっとした可能性にかけて挑戦し、納得できる道を見つけた人を、たくさん見てきました。この積み重ねがあるから、また新たな相談者に会ったときに『この人にも、きっと何かがある』と思えるんです」。岩手でいきいきと働く若者を増やしたい——。そのビジョンを掲げた高橋さん、そして「ジョブカフェいわて」というチームがいる岩手の「働くこと」は、今後も進化し続けることでしょう。
(2019年12月取材)板垣崇志さんが勤める花巻市の「るんびにい美術館」は、アトリエやカフェ、パン工房が併設されたユニークな美術館。この小さな美術館のギャラリーでは、知的障がいのある方々が制作するアウトサイダーアート(※注1)を中心に、多彩な表現を紹介しています。
障がい児福祉施設を出た子どもたちが成長したあとも通えるようにと社会福祉法人光林会が開設した入所施設「ルンビニー苑」。板垣さんがルンビニー苑と関わり始めたのは1998年頃のこと。東京の大学を卒業後、もともと好きだった美術の道に進もうと岩手へ帰郷。ルンビニー苑の苑長に「手伝ってみないか」と声をかけられたのがきっかけで、自身の創作活動を続けながら非常勤職員として足を運ぶようになります。
「初めて彼らの制作物を見た瞬間、本当に驚きました。高度な色彩配置、美しい構成。美術を勉強していない人たちが、自分の感覚だけでこんな絵を描くことができるんだ! 生み出したいものをストレートに打ち出していくその創造力に衝撃を受けました」。
感動を覚えた板垣さんは、自分にできるサポートとは何か、をもう一度よく考えたと言います。「彼らの作品を見ていると、アドバイスをする必要はないし、それはやってはいけないことなんだ、と気が付きました。自分がやるべきことは、世の中にある様々な材料を彼らに紹介し、一人ひとりの好きな感覚、作風に合った材料に出会ってもらうことではないか。それが何かを見つけるために、彼らが何を表現しようとしているかを感じ取ることに心を配りました」。
ルンビニー苑での手伝いを続けて数年経った頃、「るんびにい美術館」の企画が動き出します。再び誘いを受けた板垣さんは、美術家としてではなく、表現の力を社会に伝えるアートディレクターとして働くことを決意。「美術や表現を社会に伝えていくことの意味って何だろう」と、この時、改めて考え始めます。
「初めて彼らの作品を見た時に感じた、命と表現の一体感。それは、『美術』を学ぶうちに自分が忘れかけていた根源的なものだと気が付きました。作品を通して命に触れ、感動することで、社会で生きる上での縛りや不安から解放される場所であってほしい。そんな思いから『命のミュージアム』という構想が浮かびました」。
現在、板垣さんはギャラリーでの展示にとどまらず、積極的に情報を発信していくために「出前授業」の企画も手掛けています。障がいを持つ施設利用者が講師となり、作品を通して多くの人に、「障がいを持つマイノリティーとされる人たち」の生き方を伝えるという試みです。「こうした活動は、障がい者の人たちのために限ったことではないと思っています。人は誰しもいずれは老いて、『高齢者』というマイノリティーになる。社会にある『疎外』について考えるきっかけになってほしい、と思っています」。
美術と福祉、そして社会。一見異なる方向性を持った3つのワードが重なり合い、様々な思考が生まれる場所。そんな命に触れる美術館で、板垣さんは、いずれ社会の変化につながる大きな花の種を蒔いているのです。
注1 アウトサイダーアート/既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現した美術作品。アール・ブリュットとも呼ばれる。
(2019年12月取材)釜石にある「洋菓子専科かめやま」は、ケーキやチョコレートをはじめとした洋菓子を販売する老舗の洋菓子店です。ここでパティシエを務めるのは、亀山弘能さん。お父様の跡を継ぎ、二代目としてお菓子を作り続けています。
実家を継ぐことを決意し、本格的にお菓子の勉強を始めたのは23歳の時。東京のお店に5年間通ってお菓子作りを基礎から学んだ後、お菓子教室の先生や、プロを対象としたパティシエ講師などで経験を積みます。また、当時全国でも珍しい存在であった、原宿表参道の大手製菓会社のアンテナショップの立ち上げにも携わりました。その後、ヨーロッパ各国での研修も経験し、さらなる努力を積み重ねて、お菓子作りの技術を高めていきます。輝かしいキャリアをたどる亀山さんですが、心に引っかかっていたことがありました。「見かけにこだわり、流行り廃りが激しい都会では、情報に左右されて本当に良いお菓子の価値が見えづらくなっている。そこに納得できない自分がいたんです」。素朴な中にこそ「本物」が生まれる。そう信じた亀山さんは、自分の夢に沿ったお店を盛岡に作ることを決めたのです。
35歳の時に盛岡でオープンした「アンナ・マリー」は、多くのお客さんに愛されました。小さなお店でも、気持ちを込めて作ったお菓子を一人ひとりのお客さんに届けることは、亀山さんにとって何よりの幸せでした。しかし、開店から3年目にして、食道がんを患っていることが分かったのです。「生存率がかなり低いと告げられ、内心、神も仏もいないのではと思いました。でも、二度と会えないかも知れないと思うと、出会う人との時間を、とても大切にするようになりました」。病気になったことで、何が本当に大切で、何のために生きるのかを常に問い続ける人間になれたと話す亀山さん。その後無事に回復し、多くの人に愛されるお菓子を作り続けるとともに、16名のパティシエを育て上げました。そして、東北初とされる大学主体のキャリア科の立ち上げにも携わり、若者を育てることに情熱を注ぎ込みました。「アンナ・マリーを巣立った愛弟子たちと同様に、多くの教え子に恵まれた日々でした」と、亀山さんは当時を振り返ります。
盛岡のお店をたたみ、釡石に戻った亀山さんは、家のお店の後継者として再スタートを切ります。しかし、その翌年に発生した東日本大震災の津波被害により、純喫茶として地元の人に愛されていた店舗をひとつ失いました。そのような状況の中でも、今自分にできることは何かを問い続け、微力でもお菓子を通して誰かの役に立ちたいと考え、なんとか本店と工場を保って菓子作りを再開します。そして今も毎日、生涯現役であり続けたい一心で、厨房に立ち続けています。
「お菓子には、作り手の思いが直に出ます。どんなに高い技術があっても、大切な人を思って作るお菓子のおいしさにはかなわない。だからこそ、自分のケーキを選んでくれる方々に、心を込めて作ったお菓子で感謝を伝えたい。そしてそれを選んでくれるお客様がいるのは、とても幸せなことです」。そう話す亀山さんは、いついかなる時でも、自分でこれ以上はないと思えるお菓子を作るために、努力を惜しみません。亀山さんの作るお菓子は、今日も誰かの心に届いているのです。
(2019年1月取材)南部鉄器の魅力を日本のみならず世界に向けて発信している、南部鉄器職人の田山貴紘さん。田山さんは職人としてはもちろん、販路開拓や企画・マーケティングなどにも力を入れて、より多くの方々に南部鉄器の魅力を伝えるべく様々な取り組みを行っています。
岩手では名の知られた南部鉄器職人の父を持つ田山さんですが、後を継ぐことは考えていませんでした。高校卒業後は関東の大学に進学してバイオロジーについて学び、大学院を経てそのまま関東で食品メーカーに就職して営業を担当していました。
岩手に戻ってきたのは2012年の年末。その理由を田山さんはこう語ります。「30歳を目前にしてこれからの人生を考えた時『自分にしかできないことをやりたい』と思うようになったんです。東日本大震災の時にボランティア活動を通して自分の価値観が変化したことや、6年間の社会人生活を経て分かってきたこともあり、様々なタイミングが重なって岩手に帰ることを決めました」。それからは南部鉄器の市場や現状を調べ、自分にできることは何かと考えました。そして、後継者不足を始め、販売促進や広告、マーケティングのノウハウが不足している事に気づきます。田山さんは、食品メーカー時代に培った流通にまつわるノウハウを生かし、その課題を解決していくことが出来るのではないかと考えたのです。
2013年11月に田山さんは南部鉄器市場を好転させるべく、「タヤマスタジオ」を立ち上げます。南部鉄器職人としての経験はゼロ。田山さんは寝る間も惜しんでひたすら技術を磨き続けました。職人として一人前になることが新しい取り組みをする中で信用につながると信じていたからです。「多くの人に存在を知ってもらうこと」が一番大切だと感じた田山さんが一番最初に始めたのは、ホームページの立ち上げです。するとお客さんからの問い合わせが増えてきたのです。それを皮切りに、東日本大震災をきっかけにつながった仲間と共に様々なイベントを企画・開催してきました。南部鉄瓶で沸かした白湯の試飲会や、鉄瓶で入れる「Feコーヒー」を提供するなど、南部鉄器の魅力を体感してもらう活動をしています。「次第にお客さんが増えてきて、積極的に発信することの大切さを肌で感じました」。
さらに南部鉄器の魅力を発信するため、南部鉄瓶ブランド「kanakeno」を立ち上げました。「上質な白湯を提供する」というコンセプトを基に、職人が手がけた機能的な鉄瓶の魅力をたくさんの方に知ってもらいたいという思いが込められたブランドです。田山さんは「鉄瓶コンシェルジュ」として購入後の鉄瓶のお手入れのサポートを行っています。「鉄瓶は放っておけば錆びるし、使い方に慣れるまで大変だけど、使ってみて初めて分かる良さがある。だから大切に長く使い続ける方法を教えてサポートしています。愛着を持って普段から使ってもらえる鉄瓶を作っていきたいです」。
伝統工芸は守るものではなく、日常の中で使われ続けて未来へつながっていくものです。南部鉄器をはじめ、伝統工芸業界の価値が上がるような取り組みをしていきたい」と田山さんは語ります。いつもの生活のそばに伝統工芸品があり、長く、大切に使われていく世の中が当たり前になる。それが田山さんの目指す世界です。岩手の伝統工芸品の未来を背負い、田山さんは今日も南部鉄器の魅力を発信しています。
(2018年8月取材)平安時代末期、鎌倉勢に滅ぼされた奥州平泉の藤原勢の落人が、一関市東山町に土着して農耕の傍ら生活用品としてつくり始めたと言われている「東山(とうざん)和紙」。およそ850年の時を越え、紙漉きの文化は今も受け継がれています。現在東山で様々な和紙を取り扱うお店「紙すき館」を営みながら、紙漉き職人として25年間和紙づくりを続けている鈴木信彦さん。和紙の原料となる「楮」の栽培から製造・販売までを一貫して行っています。
東山ではその昔、障子紙やお寺などで使う写経用紙の需要があり、当時の人々は農産業の閑散期である冬季に副業として家庭で和紙を漉いていました。それが長く続いてきたことから、次第に他地域への販売をするほどに産業化したのです。しかし、時代の変化により需要が減少し、今では東山で紙漉きをしているのは鈴木さんを含めて2人のみ。その中で、東山和紙を次世代へ残すべく、現在4人の研修生を育成しています。
東京でサラリーマンをしていた鈴木さんは、心身ともに多忙を極める生活が続いていたことから、「紙すき館」を経営している実家へ戻ることを決意。当時岩手県の名工として紙漉き職人をしていた方から指導を受け、東山で紙漉きを続けてきました。「和紙づくりにおける優れた技術を学ぶために、栃木や富山、京都など、各地を訪れ研修を受けました。和紙で新しいものをつくりたかったので、外に出て教えてもらわなくてはと思っていました」。鈴木さんは他の土地で学んだ新しい和紙商品を東山にも取り入れようと、懸命に勉強し、技術を磨きました。もともと製造していたはがきや便箋、名刺などをはじめ、和紙製の灯りなども見よう見まねでつくったと言います。
「何でも選べる便利な時代で、和紙を使うこと自体減っているから、この業界も厳しくなってきているね」。そう語る鈴木さんですが、その表情には職人としての心意気が垣間見えます。鈴木さんが紙漉きを続けていくのは、和紙の価値を信じ、いつか必要とされる時代が来ることを願っているからです。「日常生活に必要なものとして使ってもらえるような、新しい商品をつくりたい。商品開発をしつづけ、後継者の育成にも力を入れ、和紙の需要が増えるような未来になってほしい。そのためにまずは自分たちで努力し、伝統としてではなく多くの人が携わる産業として残るようにしていきたい」。
この仕事のやりがいを尋ねると「いい商品だねとお客さんに言ってもらえること。自分がつくったものを他の人に評価してもらえるのが一番嬉しい。それがあるから続けているようなものです」と話してくれた鈴木さん。紙漉きはとても繊細な作業であり、原料の楮の栽培から和紙の完成まで一連の流れを知っている職人だからこそ、良い紙に仕上げることができ、自信を持って店頭に並べられるのです。「手間はかかるし、量もそんなにできるわけじゃないけどな」と、満足そうに話す鈴木さんに、紙漉き職人としての誇りが感じられます。
鈴木さんは、地元の魅力ある文化と、その一部として和紙づくりをしていることに誇りを持ち、今日も紙を漉いています。「岩手には広大な土地や豊かな自然環境があって、伝統文化もたくさんある。たくさんの魅力があるから、その価値を多くの人に知ってもらい、触れて、使ってみてほしい」。職人として鈴木さんの内に秘める真っ直ぐな思いが、東山和紙の未来を照らしています。
(2018年3月取材)生きるために自分たちが食べているものを、どんな人がつくっているのか知ってほしい。その思いから「食べる通信」を通して生産者と消費者を繋ぐ活動をしている高橋博之さん。生産の裏側や現場にあるストーリー、そして旬の食材の美味しい食べ方等を誌面で紹介し、毎月食材と一緒に購読者の方にお届けしています。
花巻で生まれ育った高橋さんは、大学進学のため上京し、そのまま東京で国会議員秘書として勤務。政治の世界を知っていく中で、自分の故郷である岩手も様々な問題を抱えていることを考え始めます。「自分にできることがあるかもしれない」と考え、29歳の時地元に戻ることを決意します。
岩手に戻った高橋さんは、「岩手の一次産業は、若者の地元離れや生産者の高齢化などの問題を抱え、活力がなくなっている」という印象を受けます。「食べものが無くなって困るのは消費者である私たちなのに、生産者の方だけが頭を抱えている状況を見て、今まで他人事にしていた自分に気づきました。消費者である僕らも一緒に考えるべきだと」。高橋さんは、まずは消費者が食材の裏側にある生産者のことを知る必要があると考えました。
そんな時、東北を未曽有の大震災が襲います。「東日本大震災があって、今まで見えていなかった多くのことに気づかされました」。あの時、多くの被災者は漁師で、支援者は消費者でした。支援をする中で、普段スポットが当たらない生産者の魅力に気づいた人も多くいます。「震災の時だけでなく日常から生産者と消費者は繋がるべきだ。そして被災地として支援してもらうだけでなく、ここから発信していくことが復興の力になる」。そう感じた高橋さんは、生産者と消費者を繋ぐ媒体として「食べる通信」を制作するために動き出します。
「食べる通信」の創刊には、多くの苦労がありました。どうしたら生産者の魅力を最大限に伝えられるか。購読者の方に鮮度の良い状態で食材を届ける方法はあるか。試行錯誤を重ね、スタッフが一丸となって「食べる通信」を作り上げてきました。創刊から4年が経った今も、苦労は尽きません。それでも生産の裏側にあるドラマを徹底して追いかけ、その魅力を伝え続ける高橋さん。その理由は、「生産者の魅力を知れば絶対に食材を好きになってもらえる」という自信と強い意志を持って活動しているからです。
「生産者の方々に会うと『生きている』と強く感じます。生き物は自分が生きるために、他の動物の命を奪って生きるしかない。僕ら人間だけはその行為を他人に任せている。それは、人間を生きる実感から遠ざけていると思うのです」。豊かな暮らしの中で、効率性や値段の安さを基準にして食材を選んでしまうのは必然かもしれません。しかし、「生きる」ために能動的に活動する生産者の生き方を知って選ぶ食材は、より一層価値を持ってあなたの元へ届きます。
食べることは、生きること。これは高橋さんにとっての大きなテーマです。「全ての食材を吟味して買うことはできません。しかし、その一部でも生産者の顔を見て、食材に込められた思いを感じて選ぶことはできる。『生きている』と感じることができると信じています」。高橋さんは、生産者と消費者が繋がることが当たり前になる未来の実現のために考え、行動し続けます。「食」を通じて、世界が変わる日は、そう遠くないかもしれません。
(2017年11月取材)盛岡市菜園にある筆記具のセレクトショップ「pen.」。店頭には、店主の菊池保宏さんが選んだボールペンや万年筆、便箋など国内外の選りすぐりの文房具が並びます。小さい頃から「物」に対するこだわりは強かったと話す菊池さん。「何でもいいというのが嫌いで、時計や靴をはじめ身につける物へのこだわりがありました。とりわけ筆記具は日常的に使う物の中でも身近で、個性を演出できるアイテムの一つとして大事にしていたと思います」。
専門学校でデザインを学んだ後、雑誌の編集を手掛ける企業で一年程働き、接客業に興味を持った菊池さんはホテルに就職。その頃、人生の転機となる出来事がありました。「中学の同級生が、病床に臥す母親から形見分けとして高価なブランドの腕時計を贈られた。物には個性を演出するだけではなく、想いを託したり引き継いだりする大切な役割もあることに気付きました。この時から、物を売ることを通してその背景にある想いを伝える仕事をしたいと思うようになりました」。
強い思いを持った菊池さんは、道又時計店へ転職。そこで勤めた十年間で接客を徹底的に学ぶと同時に、接客をして物を売るということに魅了されていきます。「接客業ってすごくクリエイティブな仕事なんです。お客様と自分、そしてお店のスタッフ。その空間にいる人たちで一つの舞台を作り上げていく感覚。その雰囲気がたまらなく好きですね」。
道又時計店で働く日々の中でも筆記具にはこだわっていたという菊池さん。ある時ふと、「筆記具は時計などと同じように自分の一部として見られる大事な物なのに、じっくり相談しながら買える場所ってあるんだろうか。ないなら自分が作ろう」と思い、始めたのがこの「pen.」でした。2014年秋、遂に筆記具へのこだわりと、追求してきた接客のノウハウを掛け合わせた、菊池さんならではの店がオープンしたのでした。
2年目を迎えた2016年、そんな菊池さんの代表作といえる筆記具が誕生しました。100%浄法寺産の漆で外装を塗上げた「japen」は、文房具メーカー(株)トンボ鉛筆の特別協力を得て開発されたキャップ式のボールペン。ベースには1986年の誕生以降、世界中で愛され続けているトンボ鉛筆の「ZOOM505」を使用。一本一本、漆塗りや組立もすべて職人たちによる手作業で製作されています。
きっかけは、あるお客様から(株)浄法寺塗産業の松沢卓生社長を紹介され、日本の漆の現状をお聞きしたことからでした。日本で使われている国産漆がたった2%だと知りショックを受けたと同時に、その希少な国産漆の約70%が岩手の漆ということに誇りを感じて。この現状をもっと多くの人に知ってもらいたいと思いました。万年筆ではなくボールペンにこだわったのも、広く伝えることを優先したかったから。日常的に使ってもらえる筆記具を選びました」。
色は黒、朱、溜(ため)の3色で、それぞれ水性と油性の全6型。100本製作するのに約6ヶ月を要しますが、今までに製作した200本以上は岩手県内をはじめ日本各地から問い合わせがありすぐに完売。現在も製作中で年内には再入荷を予定しています。
今後の展開はと聞くと「正直あまり考えていないんです。明日店がどうなるかわからないという気持ちで毎日を過ごしています」と話す菊池さん。一日一日、一つ一つの舞台に全身全霊で取り組む菊池さんだからこそ、一人一人が満足できる商品を提案することができるのでしょう。
(2017年3月取材)「商品開発コーディネーター」として、日本全国で活躍する「株式会社パイロットフィッシュ」代表の五日市知香さん。農水産業の生産者や小規模企業の商品企画やパッケージデザイン、販売までをトータルにサポートする仕事をされています。「山田の牡蠣くん」、「ブルーベリーのことこと煮」、「ドライトマトのオリーブオイル漬け」など、五日市さんが手掛けた商品は、誰もが一度は目にしたことのあるものばかり。数多くの賞を受賞し、生産者の方に新たな道を示してきました。
扱うのは基本的に「食」に関わるもの。自身の仕事について「『美味しい』の先にある幸せを作っていく仕事」と五日市さんは話します。「美味しいものを食べた時に感じる幸せな気持ち。私の仕事は、商品を通してその気持ちを届けることだと思っています。」
起業後は、日本各地から依頼を受け、セミナーや講演会の講師としても引っ張りだこ。この仕事はまさに彼女の天職と言えそうです。とはいえ、ここに至る道のりのスタートはフリーペーパーの営業職だったと話す五日市さん。営業や編集の仕事を行う中で、自分で企画を提案し形にしていくことの楽しさに目覚めたことが今につながる原点。そして、広告代理店、印刷会社の営業を経て、仙台での就職を機に、人生の転換期を迎えます。
「ちょうどその頃、盛岡が舞台のNHKの朝の連続ドラマ『どんと晴れ』を観て。私はなんていいところに生まれ育ったんだろうと、岩手の魅力を改めて感じたんです。『恩返しをしたい』という気持ちにかられ、先のことは何も決めないまま盛岡へ戻ってきました。」
その後も商品パッケージの営業として仕事を続けた五日市さんでしたが、「どうせなら企画から提案できる仕事をしたい」と思うようになりました。そんな時、大量に栽培した山ぶどうの販路に悩む生産者との出会いがあり、「これまでの経験を活かして、開発から販売まで生産者さんをトータルにお手伝いできないか」と新たな気持ちが沸き上がります。
そう思い立った五日市さんは、前職を退職。独立して新たな一歩を踏み出します。掲げたテーマは「小さな力の商品開発」。「生産者の方に寄り添った商品開発をしていきたいと思いました。『小さな力』が集まればやがて大きな力になっていく。それで岩手を元気にしていけたら。」
また、独立のきっかけでもある「恩返しをしたい」という思いの対象は、東日本大震災後、「岩手」だけはでなく「支援してくれたたくさんの地域や人へ」と広がったと話します。「今後は、被災地の商品開発を継続的にお手伝いしながら、さらに、岩手のいいものと、応援してくれた地域のいいものをコラボするなど、小さなことから少しずつ恩返しができればと思っています。」
「パイロットフィッシュ」という言葉には、「水先案内人」という意味があります。これは、「困っている生産者を導きたい」という思いから付けた屋号。起業当時から現在まで、五日市さんのそんな思いはぶれることなく一直線。その姿勢を見て、生産者の方も信頼して道案内を頼むのではないでしょうか。そして導かれるうちに、自然と自分たちの力で歩き出せるようになっていく。小さなイルカは、理想とする「地域を元気にする商品開発」を目指し、広い海の中たくさんの迷い舟たちの舳先を元気に泳いで、それぞれの目的地へと先導していくのです。
(2017年3月取材)二戸市出身の高村英世さんと、妻 民子さんは、明るく朗らかで、とてもパワフルなご夫婦。そんなお二人が人生をかけて取り組んでいるのは、雑穀の有機栽培。「有機」と一言で言っても、その道のりは口で言うほど簡単ではありません。農薬や化学肥料を一切使わず、人の手で畑の手入れをし管理していきます。周囲からそれらが飛散してこないような木に囲まれた中山間地に畑を作り、土作りに必要な堆肥も抗生物質が一切使われていない鶏糞を使います。様々な制約すべてをクリアした畑を3年間維持して初めて、「有機」の畑と認定がもらえるのです。
そんな高村さんの努力の結晶ともいえる畑で育つのは、もちあわ、もちきび、たかきび、ヒエ、アマランサスの「五穀」。高村さんの雑穀は、食の安全や健康意識が高まっている昨今、全国各地から注目を集めています。また、体が弱い人やアレルギーを持つ方から電話がかかってくることもあるそうです。「正直、儲けのことを考えたらとてもじゃないですがやっていられない。でも、この雑穀にはお金では買えない価値がある。とにかく、安全な食べ物を届けたいという気持ちでやっています」。
今でこそ有機農業の道を究める高村さんですが、農業を始めた当初は近代農業を行っていました。県立の農学校を卒業後、父親の代まで続いていた雑穀を、現金収入を得やすい野菜に切り替え農家の道を進みます。
「10年ほどして規模が大きくなると維持するために大量の農薬や化学肥料に頼るしかなかった。毎日大量に農薬を浴びるような生活を続け、40代半ばを過ぎ、気づいた頃には体に限界がやってきていました。肝機能障害と診断され、この経験が最大の転機になりました」。
命の危機と直面したことをきっかけに、農薬を使わない農業を探し始めた高村さん。そんな時に出会ったのが、無農薬で育てられたキビでした。「その時浮かんだのが、地域の自然保護活動の際に見たヒメボタルの光でした。雑穀の一粒一粒はヒメボタルの光のように小さいですが、アレルギーに苦しむ人にとっては、ダイヤのような輝きになるだろうと。これが本当の意味での出発でした」。
現在、英世さんは日々の農作業に加え、地元の小学生たちに自然環境の授業も行っており、子どもたちは高村さんの畑で生き物とふれあい、「共生・共存」について学んでいます。また、「へっちょこ団子」の食の匠でもある民子さんは、雑穀を使ったレシピの考案をしたり親子料理教室を開催するなど、夫婦そろって忙しい毎日を送っています。
高村さんたちが目指すのは、一時的な利益ではなく、もっともっと大きな夢の達成。「有機は自然環境そのものです。動物も植物も人間もみんな自然のなかで生きています。環境を大切にする生き方や考え方を子どもたちに伝えたいんです。後継者は?とよく聞かれるけれど、今までで800人を越えましたと答えるんですよ。私の授業を受けた子どもたち全員が後継者ですから」。
子どもたちの将来、人と地球の未来を考え、強い信念を持って、環境に対する考え方を育んでいこうとする高村さん。その意志を受け継いだ小さな種たちは、二戸市からいつしか様々な場所に飛び立って、日本全国で立派な芽を出していくに違いありません。
(2017年1月取材)国内外各地で展示会や講演会を開催し、国産漆の価値を伝えている松沢卓生さん。漆の魅力をこう語ります。「漆は木の樹液なのですが、木に傷をつけると出てくるということがまずなんとも不思議な素材だと思いました。塗料や接着剤としても使うことができ、日本人は古くからこの素材を上手に使いこなしてきたということにも感心します。工芸品や美術品に塗装したときに見られる漆黒の美しさ。自然の素材でここまで高度な質をもち、これほど美しい素材があるというのは日本特有のものだと思います」。
2009年に前職の岩手県庁職員を退職し、「株式会社浄法寺漆産業」を設立。2011年には、チューブに入れた状態の漆を初めて考案し、グッドデザイン賞を受賞しました。その後、2013年には国産漆と国産ガラス(山口県の工芸品)を組み合わせた作品で2回目の受賞。2016年には、指物木地と国産漆の茶筒で3回目の賞を受賞しました。また、最近では車の内装に漆を使用したり、漆で塗装したボールペンを製作するなど、漆の新たな可能性を追求する取り組みは、全国的にも高い評価を得ています。
松沢さんが漆と出会ったのは、二戸地方振興局への転勤がきっかけ。林務部への部署異動により、初めて浄法寺の漆や漆を取り巻く人々と関わり始めます。「浄法寺の漆は日本一の生産量ということは知っていましたが、実際に現場を見てみると、後継者も減少し、産業として低迷しているのを感じました」。
国産漆の産地で4年間を過ごし、漆産業の現状を知るほどに、その世界にどっぷりとはまっていった松沢さん。「地元には漆掻き職人さんだけで20数名、漆器職人も10数名いるのですが、作ることが専門なので、対外的なPRの部分に力をさけていないのが実情でした。衰退しているという事実はあるけれど、岩手県の貴重な財産なので、なんとか変えていけないかな、と思うようになりました」。そして、「やれる人がいないなら自分が」そう決心した松沢さんは、新たな道を歩み始めます。
現在、漆産業が抱える課題は大きく2つあると松沢さんは話します。1つは漆掻き職人の高齢化。1年のなかで漆がとれる時期は限られるため、仕事として成り立ちにくく、若い職人が定着しにくいということ。
そしてもう1つは、漆の木の減少。漆は1本の木から200グラムしか採れず、漆が採れるようになるまで最低10年の月日が必要となるため、どんどん木を増やしていかなければなりません。こうした課題を解決していくために、漆掻き職人の後継者育成のための研修や、漆の木を植えるベストな環境を確保するための動きも始まっているそうです。
課題はまだあるものの、最近では国内外で国産漆の注目度が高まってきていると松沢さん。さらなる展開の勢いを予感させる漆産業について、今後の展望を伺いました。「国内で使われる漆の98%を中国産の漆が占めるようになりました。でもそれは漆の産出国としてやっぱりおかしいことだと思います。最近では、日本ならではの伝統を積極的に見直す動きも見られ、さらに一昨年から、文部科学省で日本の文化財の修理に国産漆を使うということが決まり、漆産業にはこれまでにないほどの追い風が吹いていると感じています。今だからこそチャレンジしなければならない。いろんな方々の力をいただきながら、漆を普及させていきたいと思います」。
(2016年12月取材)1970年創業、民芸品制作の伝統技術を守り受け継ぐ「雫石民芸社」。雫石町の豊かな大地が育む自然の素材を使い、温かみのある作品を一つひとつ手作業で生み出しています。布で作る「雫石あねっこ」や「さんさ踊り」の人形、くるみや山ぶどうの木の皮から作るかごバッグ、稲わらを編み込んで作る履物や、しめ縄など、店頭には数多くの作品が並びます。
現在は、創業者である階美榮子さんを筆頭に、娘の久美子さん、久美子さんのご主人の治さん、家族総出で民芸品の制作を行っています。父親と祖父が生活に必要なものを手づくりする家庭で育った美榮子さん。ものづくりの環境は幼い頃から身近にありました。「父や祖父がわらで靴などを編むのをそばで見ているのがとても面白くて、いつも近くにいって、真似っこをしていました」。
そんな美榮子さんは、父親のすすめで洋裁学校へ進学。そこで和裁、洋裁、編み物、人形作りのノウハウを学んだといいます。
初めて「雫石あねっこ」の人形を作ったのは、久美子さんを産んで間もなく、昭和40年頃のことでした。雫石では古くから、女性は「あねっこ」の衣装を着て嫁ぐのが習わし。しかし、着物やももひき、笠などを身に着けての農作業はとても動きづらく、美榮子さんは着物をほどいて、動きやすい作業着を自分で作ったそうです。
「私にも作ってくれ、という人がたくさん出てきて、とうとうあねっこ姿の女性がいなくなってしまったんです。これは大変なことをしてしまったと、どうにかしてあねっこの文化を残そうと人形を作ったのが始まりです」。
そうして生まれた「あねっこ人形」は、岩手国体が開催された昭和45年、岩手県特産品コンクールにて県知事賞を受賞。民芸品として広く知られるようになります。その後も美榮子さんは、生まれ持っての想像力と手先の器用さを生かし、さまざまな民芸品を作り出してきました。
「作品が出来上がったときが一番うれしい」と笑顔で話す美榮子さんは、82歳とは思えない程ハツラツとしていて、民芸品づくりの他、「手づくり教室」での指導も行います。14年前からは、娘の久美子さんが後継者として技を受け継いでいます。久美子さんも母親ゆずりの器用さとセンスで作品を手掛け、数々の賞を受賞。「人に負けたくないという思いは、母と同じです。そして、それ以上に、先代を越えたいという気持ちがあります」。さらに今年9月には、治さんも「いわて特産品コンクール」で岩手県市長会会長賞を受賞し、伝統は手から手に受け継がれています。
現在は、わら細工で舞台での芸術表現の小道具、店内の内装など、装飾のお手伝いもしているという雫石民芸社。自然の素材と伝統の技、そして、時代の流れをとらえる感性を組み合わせて生み出される民芸品には、まだまだ新たな可能性が秘められています。
(2016年9月取材)岩手県盛岡市在住の佐藤羽衣さんは、2012年3月、「心と体、環境の調和」をテーマに自身で取材・編集を手掛ける冊子『いわてのZINE(※注1) Acil』を創刊。環境に配慮した農業、持続可能な暮らし、食文化の伝承・発展、新しい働き方、地域に寄り添った活動など様々なテーマを取り扱っています。
大学進学を機に秋田県から盛岡市へ移住した佐藤さん。卒業後、小さい頃から好きだったというバレエを裏方で支える照明の仕事を5年ほど勤めた後、盛岡市内の広告代理店へ転職しライターとして働きはじめます。岩手県の様々なジャンルの店を紹介する月刊誌の編集で、県内各地を飛び回る多忙な日々。忙しくも充実した日々を過ごし5年が経った頃、佐藤さんの生活に変化をもたらす出来事が起こります。
「東日本大震災が起こり、月刊誌は一時休刊。一週間の自宅待機となりました。それまでの不摂生な生活から一転、早寝・早起き、3食を自炊し、川辺で本を読んでみたり。久しぶりに規則正しい生活をしてみると、こういうのって気持ちいいなと思えたんです。この時から体にいい食事や健康的な暮らしに興味を持ちはじめました」。
その翌年、盛岡市内丸の「Cyg art gallery(シグアートギャラリー)」で、東北にゆかりのある作家たちが作るZINEを展示販売する募集があり、「これだ!」と直感した佐藤さんはすぐに応募。業務の傍ら取材や執筆を行い『Acil』創刊号を完成させます。その後も仕事の合間をぬっての編集作業。興味のあるテーマについて自由に取材を行うなか、だんだんと自分のやりたいことが明確になっていったと言います。「代理店での仕事は取材時間も字数も限られてしまい、興味を持っても掘り下げられない、文字にできないもどかしさを感じていました。『Acil』には、じっくり相手のお話を聞いて文章にできる魅力がありました」。
発行が軌道に乗り始めた2015年の春。今後は『Acil』の編集に専念していこうと年内での退職を決意。冊子作りを通して佐藤さん自身、成長や変化を感じるようになったと話します。「『Acil』はアイヌ語で『新しい』という意味。もともと人と関わるのがそんなに得意な方ではありませんでしたが、取材やイベント出店を通して、人と出会うこと、つながりを持つことが楽しみになりました。それに、『Acil』を創刊したこと自体が新たな挑戦で、そうした初めての経験、知らない人や事と出会う時のドキドキをみなさんにもぜひ知って欲しい、そんな思いを込めてこのタイトルにしました」。
現在『Acil』は、盛岡市内の書店や図書館、カフェの他、花巻市や奥州市などで購入することができます。冊子の様相、表紙のデザイン、構成が一つ一つの号でまったく異なるのも魅力。手に取って1ページめくるごとに、佐藤さん独自の世界観が伝わってきます。「小さい頃から疑問に思ったことを流せなくて、何度もしつこく親に聞いたりしていた」という佐藤さん。「今はすぐに解決できなくても、その疑問を解決するヒントを探しに取材に出かける。知りたいという気持ちが原動力になっていると思います」。
号を重ねるごとに違った表情を見せてくれるZINE。『Acil』と共に日々成長し、進化していく佐藤さん自身を映し出しているのかもしれません。
注1 ZINE(ジン)/読み物やアート、ファッションなどジャンルにこだわらない個人発信の手作り本。
(2016年7月取材)岩手の観光PRキャラクター「わんこきょうだい」の生みの親、小笠原雄大さん。素朴で温かみがあり、子どもから大人まで愛着が持てるデザインが持ち味です。小さい頃から絵を描くことが大好きだった小笠原さんは、盛岡工業デザイン科へ進学。卒業後いくつかの仕事を経験したあと、印刷会社へ。熊谷印刷で約4年間、川嶋印刷で約19年間、グラフィックデザイナーとして勤めます。転機が訪れたのは30歳になった頃。「要望を受けて絵を描く以外に、どこかで自分の絵を描きたいという思いがあって。自分が描きたいものって何だろう?何を伝えたいんだろう?と悩むようになりました」。
壁にぶつかった小笠原さんは、自分の原点を振り返ります。「もともと落書きが大好きで、その楽しさって、何も考えずに自分が思いついたものをひたすら描くところにあった。じゃあ、今度は大人の落書きを描いてみようと思ったんです。会社の昼休みを利用して、直感的に思い浮かんだことやその日にあったことなど毎日2~3枚の絵を描き続けました。もし一年間続けられなかったら、自分の絵を描くのを諦めるくらいの気迫で。それが描きたいものを見つけるきっかけになったと思います」。
一年半が経った頃、書き溜めたイラストは1500枚もの数に。それらに「えがおのじかん」というタイトルを付け「第1回ポストカードブック大賞」に応募すると、見事大賞を受賞。この経験がイラストレーターとして飛躍する大きな一歩となりました。
昭和44年4月4日生まれであることから、44歳を迎える誕生日に独立し「OGA GRAPHICS(オガグラフィクス)」を設立。「自分が手掛けたもので街中をいっぱいにしてみたい」という思いを胸にフリーデザイナーとして走り始めます。独立後は、商品パッケージや動画など、仕事の幅も広がり、やりがいも大きいと話します。「お客さんの反応がダイレクトに届くことも醍醐味。どきどきしながらデザインを提案した時、お客さんが『カワイイ!』と笑顔で喜んでくれると、あぁ、この瞬間のためにやっているんだな、と実感します。デザインやイラストの力で人を笑顔にできるんだ、と嬉しくなりますね」。
そんな小笠原さんは、仕事で活躍する傍らボランティアも数多く行っています。ポストカードを1枚100円で販売し、その売り上げすべてを東日本大震災で被災された地域の子どもたちのために使う活動は今回で5回目。「あの震災の時、自分にできることは何なのかすごく悩んで。結局絵を描くことしかできないと思い、売り上げを寄付することを始めました。ゆっくりでいいから継続していくことが大切で、『援助』ではなく、生活の一部として普通にやっていきたいと思っています」。
岩手を代表するデザイナーとして、ますます活躍が期待される小笠原さんに今後の抱負をうかがいました。「岩手県内の各分野のクリエイターの人たちと、みんなで一緒に作品作りできないかなと勝手に考えています。例えば、僕が絵を描いて、アニメーターが動かしてくれて、それに音楽やナレーションが入って、絵本のような映像を作ったり。その道のプロが結集すると、きっとすごいモノができると思うんです」。笑顔の下の好奇心、人に寄り添ったものづくりが、多くの人の心を惹きつけるデザインの原点と言えそうです。
(2016年7月取材)雫石町にある「おりつめ木工」。オリジナリティあふれる家具を生み出し、数々の賞を受賞してきた木の匠、和山忠吉さんのもとへは県内外から途切れなく注文が届きます。和山さんが生み出すのは、ユーモアがあり、一風変わった「日常で使える作品」。その作品を生み出すもととなる「デザインノート」は100冊を越えると言います。「思いついたらすぐに書き留められるように、作業場だけでなくいろんな場所にノートを置いてあるんです。木を加工する技術はもちろんのこと、アイディアでは誰にも負けない、というプライドを持ってやっています」。
岩手県立二戸専修職業訓練校木工科を卒業後、平野木工所、四ツ家木工所での修行を経て、独立したのは25歳の時。二戸市の実家に作業場を作り「おりつめ木工」をスタートさせました。見習い時代から「技能五輪全国大会」などで何度も賞を受賞してきた和山さんですが、独立後、職人人生に大きな影響を与える人物と出会います。世界を股にかけて活躍していたグラフィックデザイナーの故福田繁雄氏です。
「福田先生の根本にある感覚と自分の中にある感覚に共通するものがあったんだと思います。福田先生と出会い、自分の発想を認めてもらえたことで背中を押していただき、今のような作品づくりにつなげることができたと思います。『どんなに素晴らしい発想でも、実際に作り出せなければ、単なる思いつきの夢に終わってしまいます。大切なのはそれを形にするライセンス(技術)』。最初の個展を開いた時にいただいたメッセージが大きな励みになりました」。
和山さんの作品はオーダーメイドだけに、量販の家具に比べ少々時間も値段もかかります。しかし、その待ち時間さえも楽しい時間に変えるほど、期待を裏切りません。
デザインはコミュニケーション』という福田先生の言葉も自分の原点になっています。お客さんが100人いれば、注文も100通り。その人の住む地域、環境、文化、生活スタイルによって、求めるものは違います。お客さんの要望をしっかり聞いた上で、作りながら自分も使ってみて試行錯誤を繰り返す。そうして改良を重ねてより良いものを作るよう心がけています。全国各地での展示会には時間も手間もお金もかかりますが、その土地の空気や人柄を知り、展示場でこぼれるお客さんの感想を拾い上げることも、次なる作品づくりの糧になるんです」。
そんな和山さんが目指すのは、「木が喜ぶ作品づくり」。作品の素材となる木が一番生きるもの、そして、人が喜ぶもの。それが木工職人としての究極の目標だと話します。
和山さんの作品は納品するまでに数年かかることも少なくありませんが、それでも和山さんへの注文は途切れることはありません。「仕事のやりがいは、やっぱりお客さんが喜んでくれること。その瞬間のために期待以上のものを作りたいと思うんです。今までなかったもの、誰も作ったことがないものを作る。そのために、自分のベストを尽くすことが大切なんじゃないかな」。
わが子のように作業場の木材を愛でながら、和山さんは楽しそうに話します。「和山さんならきっと良いものを作ってくれる」。そんな期待を胸に「おりつめ木工」の扉を叩く人は、今後もあとをたたないでしょう。
(2016年6月取材)
岩手山麓で森の暮らしを楽しみながら陶器の販売・陶芸教室をおこなっている「長内工房」の長内潤子さん。今回は陶芸体験をしながらお話を伺わせて頂きました。「20年前の世界アルペンの際に作られたログハウスを購入しここに移住しました。工房などを作る為に4回の増築をし、現在の形になりました。ここに住んで良かったことは豊かな自然と動物たちに会えることですね。越してきてよいことばかりではありませんし、冬は雪が多くて大変ですが、自然と共に過ごすのが好きです。好きだからいいんです。」国立岩手青少年の家のすぐそばにある長内工房は自然の緑に囲まれた場所にありました。工房に入るとすぐに長内さんが制作した陶器のお皿や「森のメッセンジャー」たちが迎えてくれます。「大学で陶芸を専攻し、社会人になってからは陶芸から離れていましたが、子育てもひと段落してここに移住してから本格的に再開しました。「森のメッセンジャー」が誕生したのは陶芸の際に出た切れ端をもったいないと思い、丸めたりくっつけたりしていた所、深海の謎の生物みたいなものができて(笑)試行錯誤して口を付けたときにカードを挟めることに気が付いたんです。それから森の動物で作ろうと思いました。」初めは3種類だったメッセンジャーも今では40種類以上になっています。
コロコロした目がとても可愛らしくたくさんいると今にもおしゃべりしているように見えます。「元気の元は食事ですね。自分で野菜も作っています。体力作りは空手と雪かき、習い事はパイプオルガンと、書道です。」趣味も習い事も多くパワフルで活動的な長内さん、とっても素敵でした。最後に今後の夢を聞いてみました。「今後やりたい事は、ウイーンの教会でパイプオルガンを弾くことです。5年前に縁があってウイーンにホームステイさせてもらい、その時に連れて行ってもらった田舎にとても素敵な農家がありました。その農家にホームステイをさせてもらいながら教会でパイプオルガンを演奏したいんです。」かざらずに人生を楽しむ長内さん。夢は世界を見つめています。
次世代環境健康学トランスレーター・岩手県環境アドバイザー・岩手県地球温暖化防止活動推進委員・盛岡市ボランティアガイド・「三陸春風の会」代表・ニット工房アトリエf・主宰とたくさんの肩書がある粒針文子さん。「東京で映像関係の仕事を25年していましたが、体調不良から化学物質の影響について調べるようになり、化学物質が原因の病気がたくさんあることを知りました。そこで予防医学を伝える人が必要だと思ったのですが、その類の講義は一般の人が聞くと解からないことばかりだったので、一般の人に解りやすく説明したかったんです。山と川と海がある生まれ故郷の岩手の環境を守りたい、今ならまだ間に合うと思うようになり、故郷に帰ってきました。」お手製ニットに身を包んだ粒針さんは優しく話し始めました。
トランスレーターとは専門的で難しい話を一般の方にも分かりやすく伝える人のことなのだそうです。「岩手にはホームスパンがありますよね。私が子供の頃は祖母が羊を飼っていたので、羊の存在がとても身近で、祖母は毛刈り・糸を紡ぐ・編んで洋服を仕立てるというすべての作業を、家事のひとつとしてやっていました。今は消費社会になってしまい作るより買う方が安くなってしまいましたが、昔は子供の服が小さくなれば毛糸をほどいて作り直す。それが当たり前だったんですよね。」そんな生活を見ていたこともあり、粒針さんにとって編み物はとても身近なものでした。
震災後はイワテエコの推進委員として被災地でできるエコたわしや靴下作りの講習をしたり、代表を務める「三陸春風の会」では、被災地のお母さんたちにブローチなどを制作してもらい被災地と内陸の中間支援をおこなっています。その他には環境と防災の視点から生活に役立つことを勉強し、環境教育をテーマにした講座を定期的に開催しています。
「震災が起きて命を繋ぐことがとても大事なことに気がついたと思います。刹那ばかりを大切にするのは復興じゃありません。このままでは将来町から人がいなくなってしまいます。町には人がいて、人が元気じゃないと町は元気にならないんです。いろいろなジャンルの人たちが町や環境について話をしないといけないと考えています。日々頑張っている人たちが良い暮らしをして、地域ごと育って、それを産業に生かしていく。その輪が大きくなれば、岩手がとても豊かになると思うんです。岩手の中にいるとなかなか気が付かないのですが、ここには外に発信できるくらい人も資源もあるんです。これからも一般人として岩手のいろいろなこと検証していきたいと思います。岩手の豊かな海を取り戻すために、ひとりひとりが出来ることを、皆さんと一緒に力を合わせて頑張りたいです。自然には人を育む力もあります。」一度岩手を出て自分の生まれ育った場所客観的に見れたからこその岩手への想いがあると感じました。